プリンシパルの君へ

華やかなステージで、誰かに求められて、あなたの番ですよとスポットライトが差す。コンサートや舞台を観に行けばよくあるシチュエーションだけれど、自分が今そのステージに乗ったところで、かっこよくお辞儀はできないなと強く思う。ライトが差して、それが自分に向かって差したライトであることを疑わずに、その光を浴びて見たかったと思う。両手を広げて、自信をもって光を浴びてみたかったと思う。

非現実なステージを見たあと、心地いい疲労感と満足感の中、「私は?」と思うのだった。このあこがれを、このドキドキを、私はどう処理したらいいんだろう?好きだと叫ぶだけでなく、かっこいいなと憧れるだけでなく、もっと有効に回していきたいと思ってしまう。

いつも主役には手を挙げられなかった。幼稚園のお遊戯会も、赤ずきんちゃん役には立候補できなかった。赤ずきんちゃんを森へ案内するきのこ役を任された私は、きのこの帽子をかぶって、一生懸命右左に揺れていた。

大きな波に流されるように大人になって、心は脇役に慣れた子供のまま、いきなり主役として人生をあゆみはじめる。さあ、好きなように描いてみなさい、この人生の主役は君なんだから、と言われて、私は途方に暮れる。主役なんて一度もやったことがない。台詞のある役も、スポットライトを浴びる役も、今まで練習したことすらない。それでも時間はどんどん過ぎる。あわてて駆け出す。転んで痛くて、大人だから泣かずに頑張る。私が主役のこの物語を、誰が面白がってくれるんだろうかと疑問になる。何幕まであるのか、全何回のドラマなのか、共演者は誰なのか、客席も視聴者も見えない、何もわからない。愛するものを探して駆け回る、「最愛を探す旅」。

「君は主役」という言葉にハッとする。自分なんか、自分なんてと言いながら、それでも主役は一人しかいない。私しかいない。ぎこちないお辞儀でも、ライトに怯えながらも、キャストロールの一番最初には、私の名前がある。

肩を強く押されて、また次のシナリオを追っていく。肩を押してくれる、笑顔の素敵な男の子にも、きっと同じような葛藤がある。それでも彼はかっこよく背筋を伸ばしてライトを浴び、両手をいっぱいに広げて風を切る。世界中の「主役」のために、自分に与えられた物語の主役をつとめている。