サンドイッチを選ぶように

元来、自分が優柔不断だということは自覚している。


基本的に「飲食店で最後まで注文を決められない人」だし、「買い物をしに来て、悩み疲れて結局買わずに帰る人」だし、「着ていく服に悩んだあげく、出かける直前、選んだ服の違和感に耐え切れず全部着替える人」だ。

結局決めきれず、人に決めてもらったり、時期を逃してしまったりすることは大いにある。日常生活でのちょっとした決断ならそれでもいいかもしれないが、時間をかけて考える「人生の分岐点」的な決断も、同じように優柔不断な性格が顔を出す。

私はとにかく、決断をギリギリまで引き延ばして、決断したあとも自信がない。ああだこうだと悩んだ結果、「やっぱり違う選択肢を選ぶべきだったのかもしれない」とうじうじ悩む。何もかも人に決めてもらえれば一番いいのかもしれない。着る服から働く職場まで、ああしなさいこうしなさいと言ってもらえる神様のような人がいれば、私はものすごく快適に人生を送れるのかもしれない。

前回、この「りっすん」のコンテストのために書いたブログで「就活に失敗したエピソード」を書いた。

http://kuriage-start.hatenablog.com/entry/2018/05/16/002455


そのときは、ただ「就活に失敗した」と書いたのみで、なぜ失敗したか、どう失敗したかは書かなかった。

実は私は、就職活動をしなかったのだった。失敗したというより、迷って迷って迷った挙句、何も選べずに逃げてしまった。

この世にあまたある仕事の中で、自分が最初に選ぶべき仕事は何なのか?「やりたいこと」を仕事にするべきなのか?将来の安定性はどの程度担保されているのか?この仕事を選んだとき、親は何というだろうか?私はどう生きていけばいいのか?そんなことを考えていた。

友人たちが何社ものエントリーをするなか、就活サイトを見るとめまいがした。人生の選択肢が、星の数ほどそこにある。どうすればいいかは、自分で決めるしかない。

誰にも話せないままでいた。ある日、引き延ばした迷いの糸が、ついに切れてしまった。私は一社の採用試験も受けず、一社のエントリーもせず、一通の「お祈り」メールも採用通知も受け取らなかった。

そして、終わった。星の数ほどある選択肢を選びきれずに、私は家族の用意してくれた「実家に帰る」という、あたたかいのにひんやりとした選択肢を受け取った。それは「決断」ではなくて「受容」だった。母や父が、選択肢に溺れて死にそうな私のために、とりあえずこれを掴んで岸に上がってきなさいと、一番太い選択肢を差し伸べてくれた。私はそれを掴んだだけだった。

日常生活は、決断の連続だ。小石や砂粒のような決断と、大きな岩のような決断が組み合わさって人生になる。シミュレーションゲームの分岐にすらならない些末な決断を、毎日膨大な回数繰り返すなかで、どんな会社に就職するかとか、この人と結婚するかしないかとか、いわゆる人生の分岐点と呼ばれる決断もこなしていかねばならない。

決断するには技術が必要だ。決断できなかったことに愕然として、自分の技術力のなさをかみしめた私は、つくづくそう思った。技術がなければ選べない。

決断する技術がある人の、驚くほどあざやかな決断を目の当たりにすると、私は「おおっ」と思うのである。そういう決断する技術がある人は、べつに選択肢のうちどれが正解かがわかっていて決断しているわけではない。ただ、「今からする決断の重要度」を、正しく把握している。

迷っているうちは、「何を選ぶか」「どう決断するか」が、ものすごく重要なのではないかという気がするものだ。

目の前にあるこの小さな黒いボタンを押したら、即座にミサイルが発射されちゃって、あの美しい小さな島はあのポンコツ独裁者のせいで永遠に失われてしまったのです……と、はるか未来の歴史の授業で語られてしまうのではないかとか、そういう意味の分からない妄想に支配される。

でも、大体ミサイルを発射するためには、いろんな人のいろんなハンコが必要になる。会社員をやっていて学んだ。そして、とうとう発射ですよというときに押すボタンは、目立つ色で塗られていたり、ガラスのカバーが付いていたりするものだ。

「取返しのつかない大変なこと」を引き起こすには、いくつもの過程でことごとく間違えた決断をする、もしくは、黄色と黒でシマシマにカラーリングされ「危険!!!」と注意書きされたボタンを不用心に押してしまう必要がある。


たった1回の、軽微な決断で破滅する方が難しい。目の前にある小さな黒いボタンを押したくらいのことで、何かが消えてなくなったりしない。「今からする決断の重要度」を正しく把握することこそが、決断する技術なのではないかと思う。

決断できない、決断することが怖いと泣いていた就活生の私は、自分がするたった1回の決断が、人生を破滅させてしまうのではないかと思っていた。「自分とミスマッチな会社に入社する」という決断ですべてが終わるんだと思っていた。そんなはずはない。何を選んだところで、その決断を正解にするのは、決断したあとの自分だ。決断した瞬間にすべてが決まってしまうなんて、思い込みで思い上がりだ。私は神様でも何でもないのだから。

そう思うようになってから、決断することに対する苦手意識が和らいだ。「何を選んでも大丈夫」とまではいかないが、「この選択肢を選び間違えても、終わりにはならないな」と判断できるようになった。立ちすくんで動けなくなってしまうことはなくなり、「どう決断するか」より、「制限時間内に決断する」ことを重視できるようになった。

昼間のコンビニ。私はサンドイッチコーナーの前に立ち、目に入ったタマゴサンドとフルーツサンドを見比べる。パッとフルーツサンドを取ってレジに向かい、会計を済ませて自動ドアをくぐる。

研ぎ澄まして行こうぜ、と思う。目の前にある選択肢の本質を理解して、制限時間内に選び取る。それは自分の努力で磨ける技術だ。


フルーツサンドをひとくち食べる。おいしかった。やっぱりフルーツサンドで正解だった。でも、私はたぶんタマゴサンドを選んでいたとしても「やっぱりタマゴサンドで正解だった」と言えたと思う。そういうものなのである。ミサイル発射の決断でもないかぎり、大体の決断とはそういうものだ。何もかもサンドイッチを選ぶように決断できたら、どんな景色が見えるのだろう。