遠征先の仙台で一文無しになって、お金を借りた友達のことと、その後のこと


何回も何回も思い出す瞬間として、「コンサートを見に行った仙台で、お金を使い切って一文無しになった」ときのことを書いてきた。

 

コンサートツアーオーラス、仙台公演から帰れなくなったオタクの話 - 繰り上げスタート

 

ひらりささんから「あのときのことを、Webで記事にしてもいい?」と連絡が来たとき、実をいうと少し考えた。

「自分の失敗談で、不名誉な話だから、全世界に公開されたくない」という気持ちも、なかったわけではない。でも、ひらりささんが書くならいいかと思った。あのときわたしにお金を貸してくれたのは、他でもないひらりささんなのだし。私は本当に、あの数日間のことを死ぬまで忘れないだろうと思う。

ひらりささんの記事公開と同時に、あのとき私が何を考えていたか、書いてみる。FraUに掲載されたひらりささんの記事を読んでから、読んでください。

 

gendai.ismedia.jp

 

私がひらりささんの存在を初めて認識したのは、いつのまにかフォロワー欄にいた、リラックマのアイコンを見つけたときだった。確か大学1年生の頃だったと思う。

 

そのときの私は、アニメやマンガが好きで、二次創作や作品の感想をTwitterでつぶやいていた。マンガのキャラクターをモチーフにして短歌を詠んだり、SSを書いたりしていたころ、いつもツイートを「いいね」してくれる、リラックマアイコンの存在に気づいたのだった。

プロフィールに飛んでみると、「編集者」と書いてあった。当時彼女はWebメディアの会社で、新卒社員として働いていて、私は素直に「すご~い」と思ったのだった。それとなくメディア制作にあこがれていた19歳は、自分のツイートを「編集者」が気に入ってくれることに、ほんのりドキドキした。

そのリラックマアイコンの、4つほど年上のお姉さんが「ひらりさ」さんだということを認識するまでには、そう時間はかからなかった。

 

ひらりささんは、お盆で実家に帰省していてコミケに行けない私が、「Free!の会場限定グッズ、ほしかったな~~~」とつぶやけば、「代行しましょうか?」と代理購入し、それをわざわざ実家まで送ってくれるなどという、めちゃくちゃなやさしさをくれたりした。丁寧な手紙がついていたと思う。

確かファーストコンタクトがそれ(お互い存在を認識して、相互フォロワーではあったが)だったので、本当に驚いた。都会ではこういうのが普通なのかと勘違いするほどだった。

 

その後、京都旅行に来たひらりささんと「Cafe Bibliotic Hello!」で初めて会った。色々話をしながら、この人って素敵だなぁと、しみじみ感じた。この人と仲良くなれたら楽しいだろうなぁと。

気持ちがどこかに通じたのか、ひらりささんと私は、ちょっとずつ親しくなった。ひらりささんも私も手紙が好きだった。特に用事はないけど、ちょこちょこと手紙を送りあったり、LINEでくだらない話をしたりした。

ひらりささんは、私をひらりささんの友達と引き合わせてくれた。それはものすごく刺激的な出来事で、一気に世界がキラキラしはじめた。人と出会って仲良くなることが、こんなに楽しいことだったんだと、私は驚いた。

 

私が東京へ行くときは大体会ったし、彼女が京都へ来るときも会った。謎に一緒に京都で年越ししたこともあった。そういう関係だった。仲のいい年上の、自分の知らない世界で生まれて育って生きている人だった。

数年の間に「この人は、私のことを見捨てないかもしれない」と思うのに、十分すぎるエピソードがあった。だからあの日、仙台で、泣きながら彼女に電話をかけた。

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泊まっていたホテルは、仙台駅近くのアパホテルだった。お金がなくなってしまったことをひらりささんに打ち明けた夜、泣きすぎて腫れた目で湯舟に浸かった。

湯舟に浸かりながらまた泣いていた。今まで正当化していた自分が溶けていく感覚だった。お金を貸してもらえるという事実だけが、本当に命綱だった。一人で不安なまま帰らなくていいんだと、心の底から安心していた。

このあと、結局家族に金銭的に困っていることを打ち明けて、田舎に帰ることになる。けれど、この時はまだ打ち明けられていなかった。打ち明けたら、「自分で決断して田舎に帰る」ではなく「無理やり連れ戻される」になるのではないかと思っていた。けれど、自分ひとりがひっそり抱えていた不安を、友だちの一人が共有してくれたことで、なんとかやっていけるかもしれないとも感じた。

お風呂から上がると、液晶テレビからBABYMETALが流れていた。NHKの特番で、そのとき新曲としてリリースされた「KARATE」を歌っていたと思う。これを聞いてまた泣いた。この夜から家に帰りつくまで、動画サイトでずっとBABYMETALを聞くことになる。だから今でも、BABYMETALを聞くと当時の自分を思い出す。その日は髪の毛も濡れたまま、顔に何も塗らず、泣いたまま寝た。

 

翌日起きる。もちろん目が腫れていて、髪はパサパサで、顔はカピカピだった。起きてすぐ、ひらりささんに「起きた」と連絡した。

前日まで友達と会っていたので、それなりの恰好をしていたのだけれど、その日はもう何を着るか考えるのも無理だった。寒かったら着ようと思っていたコートを着て、ストールをマフラー代わりにぐるぐる首元に巻いて、すっぴんのままマスクをした。髪は適当にとかし、適当にお団子にした。どうせまた道中で泣くだろうと思った。

荷物をまとめ、早めにチェックアウトした。その日の朝、ひらりささんが仙台駅構内の郵便局に宛てて送金するから、と言ってくれていたので、とにかくその郵便局の前で待っていようと思った。

前日からほとんど何も食べていなかった。「せっかく仙台に来たのだから牛タンを食べよう」と、一緒にコンサートに行った女の子と「利休」に行ったのだけど、私はもうそのときお金がなくて、デザート用にメニューに載っていたあんみつしか食べられなかったのだった。その女の子には「体調が悪いから食べられない」と言ってごまかした。

その女の子は、夜行バスまでの時間をつぶすため、私が泊まったホテルの部屋に数時間いてくれた。「お金がないから貸してほしい」と言うなら、それが絶好のチャンスだった(お金を借りるのに、絶好もチャンスもないけれど)。でも、私はその子に「お金がない、助けてほしい」とは言えなかった。彼女が年下だったからだった。たった一つ年下なだけなのに。どうしても何も言えないまま、私はバスに乗る彼女を見送った。

そのせいで、おなかは減っていた。その時、確か手持ちは200円ほど。お金が受け取れるなら何か買ってもよかったけれど、所持金が本当にゼロ円になってしまうことが不安で買わないまま、歩いて仙台駅へと向かった。

仙台駅近くのコンビニで、キャリーケースを着払いで自宅へ送った。ひらりささんから「飛行機の貨物預かりの重量オーバーが不安なら、着払いで送ってしまえば?」とアドバイスを受けていた。ミニストップかどこかだったと思う。店員の男性がクロネコヤマトで着払いを受け付けてくれた。ショルダーバッグ一つだけを持って、私は仙台駅構内の郵便局へ向かった。

 

局の前には、ベンチがいくつか用意されていて、その中の一つに座った。

疲れていた。背中をまるめて座り、ひらりささんから連絡が来るまでそのままでいた。その間もずっとBABYMETALを聞いて、時々泣いていた。怖かった。知らない土地にいることが、子供のように不安になった。

ひらりささんから連絡があった。午前中に郵便局で手続きをしようとしたが、手続きが煩雑で完遂しなかった。仕事もあるので、一度会社に戻る、すぐもう一度手続きするので待っていてほしいと。本当に申し訳なかった。私はまたうずくまった。

その日は平日の朝だったので、いろんな人が私の前を通り過ぎて行った。今から仕事へ行くらしいOL風の女性、サラリーマン風の男性、制服を着た女の子。大きなキャリーケースを転がした旅行者らしい人。どの人たちにも行先があって、みんなすたすたと通り過ぎていく。世間から外れてしまったような感覚があった。私は、今通り過ぎて行ったどのジャンルの人とも違うんじゃないかと。ただじっとひらりささんからの連絡を待ち続けた。時間はゆっくり過ぎていく。

 

昼前頃、再びひらりささんから連絡があった。手続きがうまくいったので、仙台駅構内の郵便局からお金を受け取れると思う、と書いてあった。すぐに郵便局に入り、番号札を取って待合ベンチで待った。

心臓がどきどきとした。もしこれで、何かトラブルがあってお金を受け取れなかったとしたら?

番号が呼ばれた。窓口で「電信現金払の受け取りなんですが」というと、女性職員は少し困った表情で「少々お待ちください」と言った。普段あまりない、イレギュラーな手続きなのだということが分かった。奥から父親くらいの年の男性職員が現れて、パーテーションで仕切られたスペースに案内された。保険証で本人確認し、署名をした後、捺印を求められた。普段なら、コンサートに印鑑なんて持っていかない。けれどそのときは偶然、奨学金の手続きをしていた関係で、印鑑を持っていた。本当に偶然だった。

 

私は捺印し、カルトンに乗った1万円札が3枚、目の前に差し出された。また泣きそうだった。ゆうちょ銀行の緑色の現金封筒に3万円をおさめ、私は郵便局を出た。


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ひらりささんに現金を受け取れたことを連絡して、さっきまで自分が座っていたベンチにまた腰かけた。突然空腹が襲ってきた。何か食べようかな、とひらりささんに連絡すると、せっかく仙台なんだから、牛タンでも食べて帰りなよ、と返事があった。元気づけてくれているのだとわかった。申し訳なかった。罪悪感と情けなさがつのった。

この精神状態で牛タンは食べられず、駅構内にあったフレッシュネスバーガーに入った。充電スポットがあったからだった。

スマートフォンの充電をしながら、ひらりささんが送ってくれた1万円札3枚のうちの1枚をくずし、ハンバーガーを食べた。味があまりわからなかった。自業自得だけれど、疲れていた。

そのとき、昼過ぎだったと思う。それからしばらく、充電をしながらネットを見ていた。就職サイトやSNSなど。これからどうしよう、と、ずっと考えていた。どうすれば自分の人生が前に進み始めるだろうかと。自分は何をしたいのか、これから何をするべきなのか。考えていれば、いくら時間があっても足りなかった。

2時間ほどそこにいたと思う。長居しすぎたと思い、店を出た。夕方の飛行機を予約していたが、早めに空港へ向かうことにした。空港で座っていれば、誰にも迷惑は掛からないだろうと思った。

乗り換えを調べ、仙台空港まで電車で向かった。

電車に揺られているとき、ふと「私には、やりたいことが何もないんだ」という言葉が頭に浮かんだ。電気に貫かれたような感じがした。

自分が行き詰まっているのは、「やりたいことをやらなくちゃ」と思っているのに、やりたいことがわからないからだと思っていた。けれど、「やりたいことがわからない」のではなく「やりたいことが何もない」のだった。それが正しかった。手遅れになって気づいた自分の愚鈍さが恥ずかしかった。

電車の中だけれど、泣いた。近くの人は驚いたかもしれない。

 

空港に着いた。あたりは暗くなってきて、肌寒かった。LCCの受付を済ませて、保安検査も早めに通った。もう何もすることはなかった。ただ座っていたかった。

搭乗口のすぐ前の待合スペースで、またぼーっと座った。途中空腹に気づいて、空港の売店じゃがりこを買った。確かチーズ味だったと思う。私はビニール袋の中にじゃがりこのパッケージを突っ込んだまま、もくもくと食べた。

大きなガラス窓の向こうに、飛行機が止まっているのが見えた。月曜日の夕方、仙台空港から飛行機に乗る人は、あまりいないようだった。待合スペースには、私のほかには、離れた席に学生らしき男の子たちしかいなかった。よく磨かれた窓ガラスに、飛行場のキラキラした灯りが映っている。

 

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感情のチューニングがずっとおかしくて、私はそれを見てまた泣いた。ずっと泣いていた。マスクの中はぐちゃぐちゃだったけれど、私は泣き続けた。知っている人は誰もいない。どんなにおかしな人だと思われても、関係なかった。

グランドスタッフの落ち着いた声のアナウンスが流れるたび、世界への申し訳なさがあふれた。私に生きている価値があるんだろうかという疑問は、ずっと前からあった。やりたいこともない、やれることもない、美しくもないただの22歳に、何の価値があるのだろうと思っていた。

けれど、ひらりささんという奇特な女性は、平日の午前中、時間を割いて郵便局へ行き、私のために3万円を送ったのだった。それは変えようがない事実だった。その事実をどう受け止めたらいいか悩んだけれど、「私はひらりささんに、3万円を貸す価値がある人間だと思われている」という、事実通りの受け取り方しかできなかった。それで十分だった。それで十分すぎた。その事実が私を支えてくれた。その事実があるから、なんとか京都へ帰ろうと、立ち上がって飛行機に乗ることができた。

 

飛行機に乗り、関西空港に着いた。

 

ここからの道のりが長いことは知っていた。ICOCAに2000円ほどチャージし、京都方面の電車に乗った。夜遅い電車には、お酒の入った若者たちがたくさん乗っている。私はずっと下を向いて、彼らを見ないようにしていた。京都府内に入って、ここからは、よく知っている道のりだった。やっと少し心がほぐれたような気がした。途中まで特急に乗り、途中で普通に乗り換え、やっと当時の最寄り駅に着いた。

歩いて部屋へ戻り、扉を閉めて鍵をかけたとき、もう24時を回っていた。ひらりささんに帰宅したことを報告して、すぐシャワーを浴びた。長い長い1日だった。

ひらりささんが貸してくれた3万円を、わたしは田舎にかえってから返した。返したけれど、私がお金に困って、ひらりささんが私にお金を貸した、貸した過去があるという事実はそのままだ。人からお金を借りるということは、そういうことだ。


けれど彼女は、どうしてだかわからないけれど、私に本当に目をかけてくれて、田舎に帰って、自分の幼稚さや家族への申し訳なさで、精神的に破綻した私の話を延々と聞き、はげまし、書きものの仕事を振ってくれた。今も振ってくれている。私個人にとって、彼女との関係が「ずぶずぶな関係」だと言えばそうだろうし、ひらりささんと私の関係が「友達」とどうかと言われれば、違うのかもしれない。私のダメさを指摘しようと思えばいくらでもできると思うし、ひらりささんが私に「そういう」扱いをしていることが、生理的に許せないと思う人もいるかもしれない。大学1年生の、ひらりささんって素敵だなぁと思っていた私と、そんな私にやさしくしてくれていた彼女との関係とは、確実に変わった。


けれど私は、あの3万円に今も支え続けられているのだった。あのとき「3万円を貸す価値がある」と思ってもらえたことで、ものすごく分かりやすく、私は生きていてもいいんだと思えた。やり直す価値はあるんだと思えた。私は今もひらりささんを「いいな」「いい人だな」と思っているし、親しみを持ちながらも尊敬しているし、友達としても面白い人だと思っている。そういう人に、手間をかけて「お金」という一番わかりやすい価値を送ってもらえたことが、圧倒的な精神安定になった。


ひらりささんは私を助けてくれたし、助けてくれるけれども、やっぱり最後は私が頑張るしかない。これは確か、ひらりささん本人が私に言ってくれた言葉だったと思う。田舎に帰って頑張れない私に、「最後はこみねが頑張らないと」と言ってくれた。ひらりささんは自転車の練習中、膝を擦りむいて「もう乗れない」と泣く私を、もう一度自転車に乗せてくれた。うしろを持って一緒に走ってくれた。この先一人でスイスイ自転車に乗れるようになっても、それは忘れられないと思う。ひらりささんは別に、忘れないでほしいとは思ってないだろうけども。


私は今も、ひらりささんのみならず、いろんな人に頼ったり、助けてもらったり、甘やかしてもらったりして日々を過ごしている。私が仙台でお金がないことを打ち明けられなかった女の子とは、今も毎週連絡を取り合う中だし、毎年変わらず一緒にコンサートへ行くし、ほかにも私のつたない文章を読んで、私のことを褒めてくれたり、存在を認めてくれる人がたくさんいる。だから、頑張り続けたいと思う。自分の気持ちはコロコロ変わるし、いまだによくわからない。人の気持ちのために頑張ることが、私の今の最適解だと思う。


先日、この話にちょっとしたオチがついた。

海外渡航中のひらりささんから連絡があり、「どうしても今日中にしないといけない振込があるが、海外からはできないので、代わりに立て替えておいてくれないか」と言われたのだった。俳優さんのトークショー代で、2万円と手数料。私は昼休みに銀行へ走り、ATMから振り込んだ。これができるようになったのだと思うと、ちょっと嬉しかった。し、単純にお願いしてもらえたことも嬉しかった。ひらりささんは「これ、ブログに書いていいよ」と、インドネシアから連絡をくれて、私はこうしてオチのネタとして書いている。この夏、東京で会うので、話しながらパフェとか食べたいんですけど、いかがでしょうか。これは私信です。