コンサートツアーオーラス、仙台公演から帰れなくなったオタクの話


好きなアイドルのコンサートを見に行った仙台のホテルで、ほぼ一文無しになった。


大学を卒業したけれど、未来は全く見えていなかった。就職活動に失敗したからだった。それでも現実逃避として、好きなアイドルのコンサートへ行くことはやめられなかった。アイドルを見に行って、アイドルを好きな友達と会って、その日しかないパフォーマンスを見て充足した気持ちになるのが、当時の私の生きがいだった。

オーラスの仙台公演が終わったあと、駅付近のビジネスホテルにチェックインしたとき、宿泊代の支払いに使おうと思っていたクレジットカードが使えなかった。当時迷走に迷走をきわめ、「金銭管理とは?」というほど正気をうしなってアイドルを追いかけており、当月の限度額いっぱいまでカードを切ってしまっていたことに気付いていなかった。当然、銀行口座にも引き出せるお金はない。

冷や汗をかきながら現金で宿泊代を払うと、財布の中に残ったのは百数十円だった。

ホテルの小さなベッドに座り込んで、私は呆然とした。なぜこんな思いをしてアイドルを追いかけているんだろう。なぜ自分のことをもっと真剣に考えられないんだろう。このままアイドルを追いかけ続けて、常にカツカツで死にそうで、それで本当にいいんだろうか。

……いやそれよりも、私はどうやって、京都にある自分のアパートまで帰るの?

気付いたら、泣きながら親しい友達に電話をしていた。どうしよう、帰れないと慌てる私に、友達は翌朝一番でお金を送金し、貸してくれた。銀行口座への振込だと反映に時間がかかるが、郵便局の「電信払込み」を利用すると、口座がなくても、遠方から即時に現金を受け取れる。完全にパニックになっており、そのことを調べてくれたのも友達だった。どこまでもふがいない。

「あこがれの街に住みたい、こんな田舎で一生生きるなんて嫌だ」と京都の大学に進学した18歳の私には、やりたいことは一つもなかった。やりたいことも、自分がやれることもわからない。けれど、その頃の私には「それを探すために大学へ来たんです」という大義名分があった。4年の間にそれを見つけて、社会へ出ようと思います、と、色んな人に言っていたような気がする。

私は「やりたいことをやって生きるべき」という呪いにかかっていた。「好きなことを仕事にして生きなさい」と言われ続けて育った。生活のために働くのではなく、やりがいのために働きなさいと。私を進学させるためにストレスでボロボロになりながら働き続ける母を見ていると、それは本当にそうなんだろうと思えた。

その頃、コンサートへ行くと必ず泣いていた。キラキラしたステージを双眼鏡で覗いている間、冷たい現実が背中に張りついていた。夢が終わってしまうのが怖かった。そして仙台で空っ欠になってしまったとき、私はただただ「終わったんだな」と感じた。モラトリアムが終わったんだと。私の本当の人生が始まってしまうのだと。

夢のような4年間が終わって、私にはやりたいことも、やれることも、何もなかった。やりたいことをやらなくちゃ、と決意してみても、そんなものはどこにも見当たらない。武装できるものは何もなく、裸で往来に放り出されたような気がした。

貸してもらったお金で電車に乗り、飛行機に乗り、何とかアパートへと帰りついた。仙台空港へ向かう間も、飛行機の発着ロビーでも、関空からアパートへ向かう間も、ずっと泣いていた。人目を気にすることもできずに、ただ自分の愚かさに泣いていた。

 

そのあとは、ものすごい勢いで時間が過ぎた。

 友達の助けで京都へ帰ることができた私は、すぐに実家へ戻ることを決めた。1人でいることが怖かった。精神的に不安定になっていることが自分でもわかっていたので、とにかく実家へ戻って心を安定させたかった。家賃を払って一人暮らしを続ける意味も、もうないだろうと感じていた。あんなに好きだったアイドルのことを見れなくなった。DVDもCDもすべて処分して部屋を引き払った。「こんなものを見てる場合じゃない」と、自分に言い聞かせた。

仕事は運よく見つかった。小さな職場の小さな窓口。
前任者が突然退職したと知人から聞き、すぐに面接を受けてとんとん拍子で採用が決まった。「やりたいこと」も、「やれること」も、何も考えず、とにかく働けるならどこでもよかった。働けることにホッとした。健康保険証をもらったとき、制服の支給があったとき、一枚目の給与明細をもらったとき、いちいち、何度もホッとした。

 仕事はそれほど忙しくなかった。というより、退屈さが苦痛だと感じることさえあった。時間はゆっくり流れて、7時40分に出勤して17時に退勤する。そのリズムが崩れることはほとんどなかった。

窓口に訪れるお客さまの95%がお年寄り。アルバイトで習った丁寧な接客は、聞き取ってもらえなかった。「何を言っとるかわからん」と言われ、泣く泣く、強めの方言でざっくばらんに対応すると、やっとこちらの言っていることが通じた。

朝問い合わせに応えたおばあちゃんが、昼また同じ問い合わせをしに窓口へ来る。同じことを説明して、紙に書いて渡す。

もう二度と見返さないであろう書類を分類してファイルに綴る。データの保存で済むじゃないかというような書類を、何枚も何枚も分類して綴る。

おそらく、効率的に働けてはいないだろうと思う。見る人が見れば、なんでそんなことをいちいち、ちまちまやっているの?と言われてしまいそうな気がする。細々としたローカルルールの多い職場で、忙しくないが故に、それをチェックする機会が多い。

 「やりがい」と言われると、なかなか思い浮かばない。それでも、就職してもうすぐ2年が経つ。

 

毎日同じことを繰り返す生活の中で、自分の内面がどんどん波で削られ、浸食され、色んなことに気付いた。

気付きのうちの一つが、私の呪いを解いてくれた。「やりたいこと」や「やれること」は、わからなくてもよかった。

やりたいことがあったとしても、それを本当にやるには、自分の力だけではどうにもならない。「自分はこれがやれる」と自信を持っていても、それは相手があってのことでしかない。私は「自分がどう働くか」「自分のどんな力を活かして働くか」ということに一生懸命になりすぎていた。「人とどう働くか」「人の力にどう合わせるか」ということには、全くもって鈍感だった。

特にやりたいわけでもない、自分が得意だとも思わない仕事が、同僚と一緒だと楽しく感じることがあった。苦手だと思っていたことが、上司のアドバイスのおかげですんなりこなせた日があった。「芦屋さんはこれが得意だね」と言われると、自分では全くそう思わなくても、自分に価値を見出すことができた。

自分のやりたいことがわからなくても、自分のやれることがわからなくても、「この人とならこうやって働きたい」ということならわかった。自分の目の前にいる人が、私のことを映し出してくれる。

働き始めてすぐの頃は、あんなにバカにしていた地元で働いていることが受け入れられず、倉庫でこっそり泣いたこともあった。こんなの本当の私じゃない、と、自己嫌悪で夜眠れないこともあった。

それでも、何もない私に寄り添ってくれるのは、毎日の単調な仕事だった。職場の人たちだった。勤続一か月、三か月、半年、一年。少しずつ長くなっていく月日が、私のひねくれた劣等感やプライドを洗い流してくれた。

私は働けている。田舎の小さな窓口に毎日座って、誰にでもできる仕事だけれど、他の誰でもない、私がこなしている。こんなところでは生きていけないと思っていた場所で、私は生きているうえに働いている。学生のころは思いもしなかった未来を生きている。

初めて出たボーナスで、久しぶりにアイドルのコンサートへ行った。ペンライトを振って、双眼鏡をのぞき込んだ。以前と変わらず、キラキラした世界がそこにあった。もう大丈夫だと思えた。「好き」に振り回されるのではなく、適切に「好き」へ向かって行けると思えた。

 

仙台のホテルでうずくまっていた私は、確かに「死にたい」と思っていた。助けを求めた友達との電話で、本当に口に出したかもしれない。好きなものを追いかけすぎて追い詰められるなんて本末転倒すぎる。あんな思いは二度としたくない。

 

けれど、私の人生は、やっぱりあの仙台の夜からはじまったんだろうと思う。

 
あの夜、友達との電話を切って、涙で腫れた目で、よろめきながらシャワーを浴びた。BABYMETALの特番が流れる液晶テレビ。くしゃくしゃになったオーラス公演の半券。靴擦れのあと。

何も忘れられない。これからも忘れたくない。