音楽劇「マリウス」おぼえがき

海のにおいが濃すぎる日は、なんだか吐き気がしそうになる。潮のかおりというより、生臭い血のような、DNAを極限まで煮詰めたような、とにかく嗅覚が処理しきれない濃密さで脳に迫ってくる。
そんな日に、係留されて港でぷかぷかと浮き沈みしている船を見ていると、たまらない気持ちになるのである。ちぎれてどこかへ行ってしまえばいい。私は船を運転する資格を持っていないけれど、このかわいそうな小船に乗って、エンジンを回して、転覆してもいいから沖まで出てしまおうかと思う。

 

ファニーという、かわいらしくてひたむきで、個人のノスタルジアを詰め込んだような女の人間は、この舞台を観る人観る人それぞれの「故郷」なのだと思う。いとおしくて突き放せない。愛していて願いをかなえてやりたいという気持ちになる。けれど、手放さなければどうにもならないと思い詰めることもある。

 

自分勝手に、何もかも捨てて、忘れて、生きることができるなら、それはそれでいいと思う。けれど、どんな極悪非道な人間にもそれはできない。生まれた場所、誰かと一緒に過ごした記憶、海辺で誰かを抱きしめたときの湿度、そういうものが脳の中には染みついている。それをなかったことにすることはできない。故郷の記憶は呪いなんじゃないかということは、この舞台を観る前に思っていたことだった。私に故郷がなかったなら、故郷以外に行きたい場所を持たなかったなら、どんなに楽だっただろうと。故郷を出るか出ないか、いつか帰るか帰らないか、そこに今もある、自分を知る人たちのことをどうするか、そんなことは全て、消えない呪いのようなものなのかもしれない。

 

どこかへ行く私を許してほしい。許されることを望むことを、どうか強い力をもって断罪してほしい。

 

係留されている船のロープを切って、私は誰のものとも知れない小船に乗り込む。二度と帰ってこないと言えたら、私はもっと強い人間になれるんだろうか。

 

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