幸福な他人同士

スキャンダル、スクープと呼ばれるものはたくさん見て来たけれど、自分が肩入れしている人のそれを見たのは、おそらく初めてだった。

「まさか」より「そうか」だった。報道を見たときも、それに伴う処分が知らされたときも、「そうか」と思った。深夜のベッドで横向きに寝転がり、明るいiPhoneの画面を見つめていた。そうか、そうか……と頭の中でつぶやきながら画面をスクロールし続けていたら、あっという間に明け方近くになってしまっていた。

多分、落ち込んでいたのだと思う。落ち込みの中に、少しの恥ずかしさみたいなものがあった。私がこの人のこういうところが好きだ、素敵だと語っていた人が、こういう風に世に知れ渡ってしまい、恥ずかしいなと感じた。本当はそんな人じゃないんです、と言えるはずがない。私は彼の一部分しか知らないし、すべてを知る権利はこれから先ずっとない。本当はそんな人なのかもしれない。ファンとして生身の人間を好くとき、私はいつでも「本当は〇〇かもしれない」という可能性を抱えながら、全然重くありませんよという顔をしている。けれど、やっぱりそれは確かな重みのある可能性なのだった。今、手の中でズシンと重みを増している。

こういう類の話題が立ったとき、私は意識してそれに触れたくなかった。”自分に語る資格はない”と思っていたからだ。けれど、語ることに資格はいらないし、資格がいるとしても、誰にでも語る資格がある。

ファンとして誰かと接するとき、ふと「どういう気持ちでこの人(またはこの人たち)と接すればいいのだろう」と考える。手を振ってもらって歓声を上げるとき、素晴らしいパフォーマンスに感動するとき、語られるエピソードにときめくとき、こんなに幸福な瞬間はないと感じる一方で、ひどく残酷なことをしてしまっているのではないかと思うこともある。法に背くことをたとえしていなくても、私がファンとしてしている行為は、果たして正当なものなのだろうかと思うことがある。それは時折見かける「アイドルを消費する」という言い回しと、共通するエッセンスを含んでいる。

ファンの数だけ、アイドルとしての姿があるのだと思う。これはおそらく間違いないことだ。「アイドル」「ファン」「消費」「応援」「推し」みたいなキーワードが関わってくるから、なんとなくねじって考えてしまうけれど、おそらく根源にあるのは「人間対人間」というシンプルな元素だ。自分を産んだ親の気持ちや、一番の親友の気持ちを100%理解することができないように、どんなに近しい人間でも、完全に理解し合うことはできないし、その対象を完璧に知りつくすことはできない。「私の中のあなた」というだけだ。Aさんに関わる人が100人いたとしたら、100通りのAさんが、100人の中にそれぞれ存在する。その100通りのAさん像の中には、似たものもあるだろうし、似ても似つかないものもある。

この「Aさん像」がぴったりひとつに一致しないからこそ、「誰かを応援する」というビジネスが成り立つんだと思う。成り立ちながら、永遠に揺れる、不安定で莫大なエネルギーを持ったものであり続けるんだと思う。正しいも間違いもない。人付き合いに正解がないように、親子づきあいに正解がないように、人それぞれの形があり、そのいびつさもすべて含めて、人間と人間の関係だ。利益や損得が介在しても、していなくても、正解がないこと自体に変わりはない。これが残酷だと言うのであれば、人間関係の多くが残酷なんだろう。

「そうか」をひたすら積み重ねて、私の気持ちははるか上空のあたりに上っていったようだ。高い高い場所にいると、「手を離すのはいつだって私なんだ」というところへ行きつく。どんなに好いているアイドルでも、ファンをしているのが楽しくても、手を離したければいつだって離したらいい。自分が許せるか、許せないか。手を離しきれるか、離しきれないか、それだけだ。実際に触れあわない、遠い場所にいれば、そういう別れ方もできる。自分が手を離したくても、相手が離してくれないことは、近しい人間関係ならままある。いくら振り払っても追いかけてきてしまうこともある。でも、アイドル対ファンである彼(彼ら)と私では、そんなことはないのである。私がアイドルである彼(彼ら)の多くを知れないのと同じように、彼(彼ら)も私の多くを知れない。私がまじめに「ファン」でいる限り、決めるのはいつだって私だ。

それはさみしいだけのことではなく、とてもやさしいことでもあるんだと思う。彼(彼ら)と私とは、手を握り合ってはいても、永遠に知り合わない。この手は私という個人の手だと、名乗って握ることはない。知り合いたいと願う人もいるだろうけれど、私はそうしたくない。知り合わないから、私は絶対的な「ファン」という立場で、手を離そうか、離すまいか、「そうか」を積み重ねながら決めることができる。無責任に幸せを祈ることもできる。

私はまだ手を握っている。あたたかい手だとも思う。この数日、私が考えていたことは、他人にとってはばかばかしく、取るに足らないことかもしれない。それを決めるのも私だ。そして彼(彼ら)のこれからを決めるのも、彼(彼ら)でしかない。
この断絶は埋まらないけれど、埋まらなくていい。埋まらない方がいい。だって私たちは手を握りあってはいても、幸福な他人同士なのだ。そんなことを考えていたら、いつの間にか4月が来ていた。