ハグの相手

ちょっとしたお別れが近づいてきている。毎朝鍵をかけて仕事に出かけるたび、自分の足音が秒針に聞こえる。今まで腕時計を着ける習慣はなかったけれど、必要に迫られて着けるようになった。父親からもらって、なくして、また同じものを買いなおしたSKAGENの腕時計。今までほとんど着けなかった。今は毎日着けている。

もうすぐお別れする人と、今日初めてハグした。落ち込んでいた彼女が、ふと落ち込みから抜けたように見えたので、もう大丈夫なのかな、と思って肩に手を回した。自然とハグできて、すごく嬉しかった。素直にはしゃいだ。

この人のことが大好きだと思ったら、四六時中抱きしめていたい人間だった。かたちを確かめたかった。それこそ仲の良い友だちの手を勝手に握って歩いていた。私はそれがとてもよくないことだと気づいていなかった。勝手に人の体にふれたり、遠慮なくかたちを確かめることは、その人のことを傷つけることかもしれなかった。自分は大好きだったけれど、二度と会えなくなることが続いて、「私がやっていたあれは、本当にあの人にとって最悪な行動だったんだ」と頬を打たれた。

気づいてからはしなくなった。普通の人と同じようにできていたと思う。単純に、この人のことが大好きだと、誰に対しても思わなくなったのかもしれない。ただそれだけだったのかもしれないけれど、そういうことはしなくなった。

だから今日、おそるおそる、ハグするつもりで肩にのばした腕と、組み合うように伸びてきた腕が嬉しかった。

私はどんどん人が怖くなっていく。自分のことも怖くなっていく。こんなひどいことをできる人間がいるんだ、と他人に対して思うように、自分に対しても同じことを思う。私はこんなに薄情な人間だったんだ、だったら愛されなくても当たり前だよな、と、寝る前スマートフォンの光を消した瞬間に思ったりする。こんなにひどい人間ばかりの世の中、どうやって生きて行ったらいいんだろう、しかも一人で、と、ため息が濁る。

だけど、私は一応、ハグの相手として受け入れてもらえたのだった。思わず伸ばした腕をするりと外されてしまっていたら、帰りの電車で、腕時計をつるりつるりと撫で続けることもなかった。もしかしたら、ああ気持ち悪いけれども、断るのも面倒くさいから、一瞬ふれあってしまえと思われたのかもしれない。なんて無遠慮なヤツだと思われたかもしれない。でも私の目から見た彼女は、数日前より明るい顔で、ハグした私の肩をポンポンと叩いて、アリガトウ、と言ってくれたのだった。なんか、信じたいなとは思った。

こんなに嬉しいことは久しぶりだった。でも、お別れなのだ。二度と会えないわけではないけど、二度と会えないかもしれない。約束としていくつか残っていた糸が一本一本ほどけていって、もう数日したらなくなる。お別れでよかったのかもしれない。これ以上大好きになってしまわなくてよかったのかもしれない。そしたらもう二度とハグしたくならないし、仲良くなりたくもならない。

地下鉄の車両を降りて、ものすごい風が吹きおろしてくる階段をのぼる。まだ腕時計をつるつるさわっている。