本物の羽根をありがとう ー映画『ハニーレモンソーダ』

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「私はここにいていいのかな」「私はこの人と一緒にいていいのかな」という気持ちは、あらゆる人が抱く気持ちの中でかなり"揺れている"部類のものだと思う。それに答えはないから"揺れる"んだと思う。その問いにいくら「いいんだよ」と言ってもらえても、最終的にそこにいることを、一緒にいることを決めるのは自分自身だからだ。答えは誰かと出会うことで、自分の中に見つけていくしかない。

羽花も界も、お互いの輪郭をとらえようと必死になって、触れてみたり光にかざしてみたりする。やっぱり触っちゃダメだと思えば、冷たすぎるものに触れたようにパッと手を離して、自分がいた薄暗い場所へ戻っていく。石になっていた方がいいとかたくなになっていた羽花の心の動きは、自分の中の小さな「女の子」を見てしまったようで苦しくなった。受け入れられたいと思っている人たちの輪の中から、何かのきっかけで自分から距離を取る、あの苦しさを思い出した。全速力で駆け戻って、浮かれて描いた絵の中から自分だけを消す。「私はここにいちゃいけない」というとき、他の誰かの「そんなことないよ」は、まったく役に立たない。自分で「私はここにいていいんだ」と思えるまで、鉛筆も握れない。

思い出の場所で結ばれて、恋人同士として生活を送るようになってからも、特に界は、薄闇と陽の光の下を行ったり来たりする。
夜の街で地下に続く階段を下りて、重い扉の向こうで、日々の糧を得るための仕事をする。上手に大人をかわし、グラスを磨き、飲み物を作る。羽花とつないだ手に、無遠慮に触られる。猥雑な街を抜けて帰路につき、誰もいない部屋に戻って、出来合いの食事をとって眠る。そんな生活に、界は自分から線を引く。ここから先には誰も入れないようにと思っていた場所に、羽花は入ってきた。光の下で会うべき人間と、薄闇の中で会う。「こんなところに来るな」と羽花を帰したとき、界はどんな気持ちだっただろうと思う。界は子どもだ。美しい神様のように羽花のもとへ駆けつけるけれど、「親に捨てられた」生活のことを打ち明けられない。
羽花は「私はここにいちゃいけない」と悩み、界は「誰もここに来ちゃいけない」と悩む。そんな中、二人は「行かなきゃ」という気持ちを信じて、知られたくない自分を置いてけぼりに、自転車で駆けていく。

結局「いいのかな」という自問自答を打ち破るのは、「そうしなきゃいけないんだ」という、根拠のない確信なのだと思う。いいのかどうかはわからないけれども、自分は今行かなきゃいけないんだという、暴走にも近い気持ち。羽根が生えているのだから、そう言ったんだから行くのだ。羽花は太陽照りつく坂を駆け上り、界はたゆたっていた夜の街を飛ばす。羽根なんて本当は生えていないから、息を弾ませてペダルを漕ぐ。

「この人なんだ」という一瞬のときめきを、確認し続けることで一生に変えていく。それが人生になるのだと思う。「私はずっとそばにいる」という羽花の言葉や、抱きしめた界の気持ちが本物かどうか、誰にもわからない。羽花と界にもわからない。そんな中頼りになるのは、こみあげてくる衝動しかない。今、一緒にいたい。今、抱きしめていたい。今、笑っていてほしい。

エンドロールで流れてくる「HELLO HELLO」の歌詞がオーバーラップして、二人の生活は続いていく。「キミに笑っていて欲しいんだ ただ」が、単純な甘酸っぱい恋のフレーズだと思えなくなる。君にただ笑っていてほしいから、怖くても変わっていく。強くなっていく。そのためだけに世界を作り替えていく。

寄り添って眠るラストシーンは、光と薄闇のあわいを表しているようだった。光でも闇でもない場所は、きっと心の中身そのものだ。鍵がかかっていなくても、あの部屋には羽花と界しか入れない。